1. はじめに
能登半島の東に位置する七尾湾は、日本海側で最大の閉鎖的な内湾です。七尾湾を含めた能登半島は、地域の環境を生かした伝統的な農林水産業と農村漁村の文化・景観などが一体的に評価されて、2011年6月に「能登の里山里海」として世界農業遺産に認定されました。豊かな生態系が維持されてきた七尾湾は、養殖漁場としての環境に恵まれ、明治時代からカキ養殖が続けられてきました(図1)。七尾湾のカキ生産量は、2023年の統計では日本海側で最多、全国でも10位の生産量を誇っています。
2. カキ養殖を始めようと考えた理由
私は22歳で石川県水産職技術吏員となり、60歳で定年退職を迎えるまでの38年間の大半を水産試験研究機関で過ごしました。この間、栽培漁業や海洋調査などさまざまな業務に従事しましたが、退職前の数年間は七尾湾で漁場環境と貝類養殖に関わる調査に携わりました。これらの調査を通じて七尾湾では高水温化、貧酸素化、泥質化などに伴う環境の変化が急速に進んでいることが実感され、今後の漁業生産やそれを支える生態系に与える負の影響が強く懸念されました。そこで、退職後はカキ養殖に取り組みながら七尾湾の環境の変化と養殖生産への影響を実体験して、そこから何か今後に役立てられるものが見つけられないかと考えました。長年にわたって水産の現場仕事をいろいろ経験していたこともこの考えを後押ししました。
3. カキ漁師になるまで
カキ養殖を始めるには、さまざまな手続きや準備が必要です。まず漁業協同組合に加入して組合から養殖の承認を得なければなりません。また私が開業を目指した七尾西湾地区では養殖施設の新設ができないことから、どなたかの既存施設を譲っていただく必要がありました。加えて養殖作業を行う小屋と作業船の調達も必要でした。これらの課題は、当時の七尾西湾地区カキ養殖組合の纏め役であるSさんにお骨折りをいただき何とか目途をつけることができました(図2)。加えてSさんにはカキ養殖のイロハを学ぶYさん(以下師匠)を紹介いただきました。七尾湾では、海面に固定したブイの間に張ったロープ(養殖棚)からカキの種苗(種カキ)を吊るして成育させる垂下式養殖が盛んです。私が師匠を尋ねたのは2019年の初夏でしたが、まず種カキの付着したホタテ貝殻(原盤)を垂下綱に挿して、それらを養殖棚に垂下する作業から始まり(図3)、七尾湾で生まれたカキ稚貝をホタテ貝殻に付着させる天然採苗、採苗した種カキの管理、カキの選別、出荷前にカキの身入りを良くするかご養殖、カキの洗浄、カキ剥き等々の様々な作業について丁寧な指導と助言をいただきました。そして2020年を迎え、漁業協同組合への加入とカキ垂下式養殖が承認されて、小規模ながら七尾西湾でカキ養殖を始めることができることになりました。
4. カキの出荷から震災まで
七尾西湾地区のカキの出荷は、全て個人出荷であるため、お得意先を持たない新参者の私は、地元の公設市場を当面の出荷先としました。出荷は2021年春先、新ガキの剥き身を数パックからスタートしました。翌シーズンには2年ものを中心に剥き身のパックを出荷しました。しかし、私のカキ剥き技術ではベテランの半分以下を出荷するのが精一杯で、加えて技量の低い私の剥き身価格が低かったことから「労多くして益甚だ少ない」状況でした。しかし、2022年シーズンからは、剥き身をやめて殻付きを水産会社に納入できたことで「労多くして益少ない」状況に一歩前進できました。そして、2023年シーズンは水産会社への納入にさらに力を入れようと殻付きの出荷準備を進めていた矢先、能登半島沖地震が発生し小屋が倒壊(図4)、再出発の余力もなく廃業の止む無きに至りました。
5. カキ養殖を始めて気づいた課題
5.1 カキの身入り
私は三重県や広島県から購入する種ガキと天然採苗して得られる地場産の種ガキ(地種)の双方を用いて養殖を開始しました。カキの産卵は6月に盛んになります。6月に採苗した種カキは通常は翌年春まで成育を抑制して管理し、翌春から本垂下を開始します。かつては春に本垂下した種カキがその年の年末から翌春までの出荷時期に新ガキ(1年もの)として出荷され、その身入りの良さが七尾湾産カキの特徴とされていました。しかし今では身入りの遅れが目立ち、さらに1年の養殖期間を経た2年ものが主体となっています(図5)。このようなカキの身入りの遅れは、養殖の生産効率を低下させ利益の減少につながっていることが懸念されます。今後は身入りの遅れの発生要因を明らかにするとともに、優れた成長が期待される三倍体カキなどの新たな品種の導入を急ぐべきと考えます。
5.2 クロダイの食害
私が体験したクロダイの食害は、2019年の春に一夜で数百枚の原盤の種カキが殻を砕かれて完食されたことが最初でした。今や七尾西湾では養殖棚で作業すると、クロダイの群れがまるで公園の池で餌に群がるコイのように現れるのが日常的な光景になっています。私は種カキへの食害の実態を確かめるため、現場での食害試験を2020年に実施しました。試験では4月から6月と、9月から12月に養殖棚に約1週間交代で原盤を垂下して、食害された種カキを計数しました(図6)。計数結果をもとに1週間あたりの種カキの食害割合を求めると、4月から5月は1~2割であったものが、6月には2~3割に上昇しました。一方、9月から11月中旬は1~4割で推移しましたが、11月中旬以降はほとんど食害がなくなる結果が得られました。各週の食害の割合を掛け合わると4月から6月、9月から11月の各々8週で、共におよそ8割の種カキが食害される結果となり深刻な食害被害がうかがわれる結果が得られました。しかしながら、クロダイの食害に対しては今のところ有効な対策が見当たらないのが実情です。私は原盤をネットに入れて本垂下まで管理する方法を試みましたが、手間とコストがかかり規模の大きい漁家では導入が難しいと思います。これらの食害について私は、近年の海洋環境の変化により七尾湾の生物多様性が脅かされる状況下で、雑食性でかつ貝類に対する嗜好性の強いクロダイが個体数を増やしたことに起因すると考えています。全国的にみると、クロダイの食害はカキのみならず養殖ノリでも問題となっており、関連県と連携した対策の検討が必要であると考えます。
6. 最後に
カキ養殖にチャレンジした5年間は、サラリーマン時代とは異なる楽しさや充実感に満ちた毎日でした。しかしながら、カキ養殖を廃業したことで、当初の目標とした現状の課題解決への貢献が果たせなかったことは大きな心残りです。これまでにSさんや師匠ほかの先輩カキ漁師の皆様から賜ったご厚情に心より深く感謝を申し上げますとともに、今後とも課題解決に向けてどのような協力ができるかを考えていきたいと思います。